2007年01月28日

誤読を避ける手法

 トンコさんが、「誤解・誤読を避ける工夫を教えて!」ということで、

記事作成の能力やスキルに関わる事柄なんでしょうが、同じ問題を様々な角度から扱う連載のような記事の場合、記事単体で読んでも正反対に読まれてしまわないためにどんな工夫を皆さんはしていますか?関連記事にリンクを貼る、誤読の可能性を考慮して文末や文頭に立場をはっきりさせる一文を入れておく、そんなことくらいしか思いつかないのですが、記事が無駄に長くなったりするのも嫌だしな〜。。。何か自分も似たような経験があって、こんな工夫をしているよということがありましたら、ご教示いただけるととてもうれしいです。


 と述べております。参考までに、私のやり方を書きます。

A.連載方式でいくつかの視点からまとめる場合

1. 最初の記事で、目的と目次をまとめる。
  その昔、「鉄の話」シリーズをまとめたとき、最初にやったのがこれ。
2. タイトルに記事の通し番号を振る。
  わたりとりさんのサブブログが良い参考になるかと。
3. 文頭に前回までのあらすじを、文末に次回予告をつける。
  対抗記事があることをあらかじめお知らせしておき、現段階での誤読や誤解は放っておく。
  例えば、文頭に「○○に関する考察シリーズ、n回目の今回は、××の視点から考察してみます。」ってな具合に。

B.一記事内でまとめる場合

 これはもう、注釈を使いまくるしかありません。やり方はいろいろ。
「△△を前提とした場合、・・・と言うことができる。一方、前提条件が××の場合は、…のような結論になる。」
 →論旨の前提を明記。
「・・・であると私は考える。(もちろん、…というのは承知している。)」
 →()内であらかじめ自分に突っ込みを入れておく。

 自分突っ込みの極端な手法として、脳内キャラを作って、その対話を記事にするという手もありますが(やむにやまれず、一度やっちゃったけど)、これ、かなり卑怯なやり方だと僕は思っているので、あまりお勧めはしません。

C.その他

1. 例え話を多用しない。
 何でかっていうと、議論が発散する危険があるから。たとえ話を使うと、その事柄の、論旨とは直接関係ないところに食いつく輩が出てくるからです。そのため、僕はたとえ話を持ち出すのは、極力避けてます。

2. なるべく短くまとめる。
 冗長な文の中には、本筋との関連が薄い部分が必ずあるはず。コメント欄でそこに食いつかれていると、「あー、実は言いたいのはそこじゃないんだけど・・・」ってなってしまいます。
 かく言う自分も、こんなばかみたいな長文記事を上げてしまった恥ずかしい過去があるわけですが、(あー黒歴史にしたい・・・あ、恥ずかしいというのは無駄に長いという点のみね。)このような記事は誤読を招き易いので避けたいところです。



 さて、「風のはて」では、「二度と俺に関わるな」と言いましたが、あちらの※欄にはがっつりとOYAJI氏がなんか言ってるんですよね。今回に限らず、ちょっと、突っ込みどころ満載なんですが・・・
 つか、あの人と俺と、ブログ上での行動範囲が一部被っている以上、未来永劫関わらない、ってのは物理的に困難なんだよね。そろそろ「関わるな」要件は解除しましょうかね・・・全面的に解除すると、容赦なく叩きそうなんで自分を抑えるためにも、もうしばらく制限しておきたいところですが。
 どうっすかね、OYAJIさん、とりあえずこの記事限定で書き込み、TB解除してみますが、何か言いたいことあればどうぞ。
posted by 海風 at 15:44| Comment(1) | TrackBack(0) | 表現 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月05日

似非科学がしぶといのは・・・

世の人達が

科学的な説明より、納得できる説明を望んでいる

からじゃないかと思う。

納得できさえすればよいのだから、説明してくれるのは別に神様でも何でもよいはずだけど、そこに「科学」の看板を持ってこようとするのは、それだけ人々の科学への信頼が厚いということなんだろう。

それ自体は悪いことではないと思うのだけれど、それが似非科学を蔓延させる素地になっているのは、複雑な感じ。


あと、「使っている用語の定義が明確かどうか。」にさえ気をつければ、大抵の似非科学は見破れるのではないかと思う。
posted by 海風 at 23:22| Comment(1) | TrackBack(0) | 自然・科学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

著作権とブログと。

2005/11/1(火)にアップした記事。


さて、昨日、著作権に絡む記事を書いて、ようやく頭が整理できたように思います。
さらに、他にもまだ思うところは多々あるわけで・・・

今回は私のアタマの中で繰り広げられた自問自答を書きたいと思います。
海風(以下A)と、海風@B面(以下B)の対話形式でやってみます。


B さて。昨日は著作権関連の記事を上げたわけだが・・・。
A うん。
B 例の3記事はどうなのよ。
A 以前やった、英文のニュースリリースを翻訳した奴ね。
B そう。限りなく、著作権侵害してるぜ。
A それについては以前にも悩んで記事を書いたわけだけど・・・。
B ブログポリシーをまとめたり、先の記事を書いたところで、もう一度問題視してるわけよ。俺は。
A 正直、「許して」って言いたいのだけど・・・。
B あれは、どう転んでも、問題があるわけ。
A うん。

B 順を追っていこう。最初は、ネットのニュースで、惑星発見のニュースとかを面白い、と思ったんだけど、どうも日本語のニュース文では、内容の要領を得なかった。そこで、発信元のNASAのサイトに行ったら、情報がたっぷり。断片的な日本語のニュースに不満が出た。
A そう。そこで英語の勉強も兼ねて、丸ごと翻訳したわけよ。
B 面白かったねぇ。あの作業は。

A で、そのときは著作権に関しては、ちょっとは気になったけど、それ以前に見た「ここのつの惑星」というサイトで、NASAの情報は自由に使える、みたいなことがあったので、深く考えずに書いちまった。
B あとでよくよく読むと、利用を認めているのは画像だけなんだよね。しかも条件付き。
A 先入観の恐ろしさだね。自分の都合がいいように拡大解釈してた。(恥)

A で、そのあとなんとか著作権侵害を回避しようと、悪あがきをした。
B ま、その恥ずかしい悪あがきはここを見れば分かるわけだが・・・。
A 単なる事実については、著作権は発生しない。というところに逃げ込もうとしたわけです。

B で、仮にそこで著作権の侵害を回避できたと仮定しよう。
A ん・・・。(・_・;)
B 別の問題が生じる。
A それは・・・。
B まず第1に、もともと、改変された日本のニュース記事が不満で翻訳したのに、無断で使いたいからといって、元のニュースリリースの情報を、削減するなどの改造を施した。これじゃお前が不満を持ったニュース記事と、やってることが変わらん。その時点で、本来の価値を失った。

A (;_;)うん。
B 第2は、良心の問題だ。元の記事が著作権を侵害していたことは間違いない。だからといって、こういう姑息な手段を使って逃げようというのは、どうなんだ?
A (ToT)
B 確かに、法の網は避けられるかもしれない。だけど、それは胸を張れる行為だろうか?やっぱり、やり方が分からんとは言っても、ちゃんとe-mailで、著作権者に許可を得るのが正道だろう。
A (T_T)それができなきゃそもそも記事を載せるな・・・と。
B そう。一人で楽しむのではなく、不特定多数に公開される、ネットに載せる以上はね。


というわけで、くだんの3記事は、非公開処理を施しました。
削除しなかったのは(いずれ削除ですが・・・)、やっぱそれなりに苦労して訳したものなので、あっさり消すのが忍びないので。(^_^;) ローカルに保存後、削除処理です。


A とまあ、ここに恥をさらしたわけですが、読んだ人の参考になれば幸いです。
B 公共の場に物を書く、というのは、それなりに覚悟が必要なのかもしれません。
A でもさ、ブログって、一部、ブロガー同士の交流を楽しむ面があるよね。
B うん。
A そうやって、“サロン化”してるところの記事まで、こんな覚悟が必要なの?お茶飲みながらおしゃべりしてるようなもんだよ。

B 法律絶対主義、に基づけば、ダメなんだろうね。いや、法治国家である以上、そうあるべきなんだろうけど。
A でもさ。多少の融通が利いてもいいんじゃない?法律ってのは、文面が全てじゃないだろ?運用上は、情状酌量みたいなの、民法でもあるじゃん。
B たしかに。話が盛り上がって、「マイ○ヒー♪」なんて書いただけで、JAS○ACに金を払わなきゃいけないなんてのは、理不尽だと思う。
A 実際にはその一言で、著作権料。なんてことにはならないはずだけどね。でも、権利の尊重をあまり声高に言い過ぎると、そういう世の中になっちまう。

B 実際、どこまで尊重されなければならないのかの線引きは難しくて、しかも時代によってそれは変わっていく。特許で言えば、プロパテントと、アンチパテントの流れは交互にやってくるしね。
A 今は、プロパテントの時代だけどね。
B 今のプロパテントは行き過ぎの感がある。アメリカなんか、DNAの配列の情報自体を、特許として認めている。そのDNAの機能もわからないのに。明らかに行き過ぎ。DNAを発明した人なんていない。

A さて、これで、考えたことはあらかた書けたかな?
B 大体はね。
A では、今回の脳内会議はこれまで。読んだ皆さんは、どうお思いになるでしょうか?


用語
プロパテント:特許をどんどん認める政策。
アンチパテント:特許を認めすぎると、社会の発展が阻害される、という考えから、特許の審査を厳しくする政策。
posted by 海風 at 19:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 著作権 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月04日

著作権とニュースリリース

 ニュースリリースの著作権は、どのような取り扱いになっているのでしょうか。

 過去に

1. 国内で流れたニュースの元となるニュースリリースに何がかかれているかを知りたい。
2. その内容を、他の人にも教えたい。

 ということから、NASAなどのHPのニュースリリースを、勝手に訳してブログにアップしたことがあるのですが、果たしてやっていいことだったのだろうか。(現在は非公開処理してます)

「ニュースリリースは、半分宣伝が目的だから、より多くの人が知るようにできるのは、問題はないのでは?」
と思っていたのですが、はたして実際のところどうなんでしょうか。
 と不安になって、ウィキペディアで著作権について調べてみました。

 ウィキペディアには、
ニュース報道で取り上げられる事実などは、著作権で保護されることはない。但し、事実の表現などは著作権で保護されることがある。

 とありました。
 ということは、おそらく私がやった行為は、どうもこの点において抵触してしまっていたようです。
 また、著作権の中には、翻訳権というのもあるとのこと。

 翻訳権って???

 ウィキペディアには解説されてなかったので、Yahoo!で検索しました。
 ブログ著作権ガイドというブログを見つけました。そこには、

 著作者の許諾を得ず翻訳すると翻訳権違反
 原作品を「要約」するなどの行為も、翻案権の侵害
 原作品に多少の変更を加えたもので、本質的に何ら変わることがなく創作性が認められないような場合は複製権の侵害


 とあります。

 どうにも身動きが取れません。もしかして、記事削除か?と思いましたが、救いの一文。
 著作物を自由に使える場合として、

 時事事件の報道のための利用

 とあるではありませんか。

・・・ブログって、報道か・・・?

   そこが問題だ・・・。

 ちなみに、日本新聞協会は、
ネットワーク上の著作権に関する新聞協会見解として、

「解説記事はもちろん、一般のニュース記事も、通常はその事実を伝える記者の価値判断、視点を伴っており、また、背景説明や、取材の過程で見聞した事実を取捨選択し、記者の個性を反映した表現で書かれています。」

 として、ほとんどの記事の転載を禁止しています。(引用は、それなりに制限があります。詳しいことはリンク先を見てください。)

 で、私の悩みの種は、先にやったことは、翻訳、要約という加工を施した上でほとんどの情報を載せています。元情報が新聞記事であれば、完全にアウトなんですが、これらの元記事は、NASAやMITのニュースリリースだったんです。プレスに、
「報道してくださいね」
と出している記事です。
 この場合、著作権はどうなるんでしょう???

 gooで検索したところ、
 質問:プレスリリースの著作権について
 というのがありましたが、無断でプレスリリースを使えるのは、記者クラブ会員社のみ、ということなのでしょうか・・・。

 一番確実なのは、上記3記事の著作権に関する情報を得ることですが、NASAなどのサイトにおいてニュースリリースに関する著作権について記載されたページをいまだに見つけられずにいます。



 その後、いろいろ調べましたが、どう転んでも現状では著作権上、何らかの権利侵害になりそうな感じです。というのも、

1. 翻訳しているため、翻訳権に抵触の可能性。
2. 読みやすくするため要約しているため、翻案件の侵害に抵触の可能性。
3. 元になったニュースリリース記事では、著作権に関する記述がない。(ということは、著作権を放棄していないと解釈もできる。)
4. 日本の企業のプレスリリースでは、転載などをする際、連絡を、と明記してあるところもある。

 ということで、宣伝効果という観点から、お目こぼしをいただける可能性もあるとは思いますが、結局それは希望的観測に過ぎず、現状の私の記事を載せつづける上で、もっとも権利侵害のリスクが少ないのは、プレス(ニュース)リリースであっても、権利保有者に確認するということになります。

 ところが、私は英文を読むことはできても書くスキルは非常に嘆かわしい状態。(だったら書くなってな・・・汗)そこで第2の方策。

 単なる事実については、著作権は発生しない。

 という点を使い、記事を大幅に修正するという対策をとりました。
 具体的には、

1. 情報源へのリンクの表示。
2. 客観的事実のみを引用枠を用いて引用。
3. 独自のコメント部分を質・量共に引用部分より拡充させる。

 結局は、プレスリリースも引用の範囲内で、ということになるのだろうか。


後記
posted by 海風 at 23:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 著作権 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

魂の断片

 最初に人の死に接したのは、祖母が亡くなったときだった。
 火葬の直前、最後の別れをすることができた。
 棺の中の祖母を見たとき、初めて「命」というものが分かった気がする。

 あれは、理屈で分かるものではなく、厳然としてそこに存在するもの。空気を通し、皮膚で感じるもの。

 人は死んだとき、生きている誰かに、何かを残していくのだと思う。祖母は私に、「命とはなにか」を教えてくれた。

 前に見たテレビドラマで、こんな台詞があった。

 「気持ちが重いのはな、死んだ人の魂が生きている人に残されるからだよ。」
 「天国へ行くんじゃないのか?」
 「大方はな。だけど、一部は、生きている人達に分けられるんだ。」

   NHKドラマ「のんのんばあとオレ」(※記憶に頼っているので、台詞の正確性は保証できません。)


・・・納得。

 今ある自分の行動は、周りの人の影響が(相当)入っている。好き、嫌いに関わらず。他の人の存在によって、自分の魂はどんどん変質していく。それは、他の人の魂が一部混ざり合っているのだろう、と思う。
 同様に、自分の魂も、一部は他の人の中に入り込んでいるはずで、自分がそうであるように、他人の行動の中にも、自分の影響が入っていくだろう。

 それは、「思い出」などという生易しいものではなく、もっと根幹部分に、傷をつけること。互いの“存在”を、互いに“刻み付けあう”・・・生きるというのは、そういうことなのだろうと思う。

 それはかなり、きついこと。

 でも、人が成長する過程では、必ず“傷”が付く。傷つくことなしに、成長はできない。痛い傷もあれば、心地よい傷もある。(それは傷とは呼ばないか・・・。)

 「ヒト」という種が、社会性動物として生き残る道を選んだときから、人はそういう宿命を負ってしまったのだろう。何か大きなものに属すると安心するという性も、そこに起因する本能なのだと思う。

 さて、私が“傷”をつけた周りの人の魂は、その傷によって形を変える。
 その人の魂も、他の人に刻み付けられる。
 そのとき、他の人への“刻まれ方”には、私のつけた“傷”の影響が、どこかしら残っているに違いない。
 そういう私の魂の影響は、私から離れるほどに別の人の魂によって希釈されるけど、きっと「人間社会」の中で、薄まりながら、残っていくのだろう。

 そんなわけで、自分にとって、“魂”は既に永遠に残っているものであって、生まれ変わりとかは、特に必要なかったりするのです。

 それだけに、「死んだ人の分まで生きる」というのは、死んだ人の魂の断片を抱えた自分が、その人の魂を他の人に繋ぐために大事なこと。

 「人を殺してはいけない」というのは、その人の中にある無数の魂を消してはいけない、ということ。

 生きることに理由や意味は必要なくて、生きていること自体に、価値がある。その存在そのものに、価値がある。

 ストイックになる必要は無いけれど、自分なりに一生懸命生きていれば、それだけ多くの人に刻まれる。いや、多くの人でなくても、少数の人であっても、深く刻まれる。

 そんなふうに、思うのです。
posted by 海風 at 15:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 価値/世界観 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

死んだ後と、私と、地球と、神様と。

 私は、かなり前に(たしか、高校生くらいのときだったかな?忘れた。)、神様と絶交したことがあります。理由は、もう定かではありません。
 とはいえ、私の育った環境は、かなりあの世に近いところだったので、それはそれは、大変なことでした。(なんたって、母方の姉妹が集まると、幽霊話が当たり前に出てくる。霊魂も神様も、いて当然、って雰囲気。骨のずいまで、そういう思考が染み付いてるわけですよ。^^:)

 それまで、心配事とかあると、神様にお祈り(てゆーか、お願い、ですね)してたのに、絶交した以上、できません。これが意外と、しんどいのです。

 つくづく、人間は、なにか大きなものに頼らないと、安心して生きていけないのだなぁ。と感じました。

 で、そこで「神様ごめんなさい」と・・・ならなかった。強情っ張りなんだな。

 その当時すでに、両親から良い遺伝子をいただいていたおかげで、本の虫、科学好きになっていた私は、科学の視点から世界を捉えなおそうと、一生懸命考えたわけです。

 今回は、その話をちょこっと(でも長文・・・)書きたいと思います。


 人は死んだら、どこへ行くのか・・・。

 科学、という視点から取り扱うので、とりあえず魂はおいときます。物質の行方について。

 簡単ですね。燃やされて、水と二酸化炭素、そして骨と灰になります。骨はお墓でほぼ永久的に外界から隔離されますが、水と二酸化炭素は、この地球上を巡ります。
 そしていつかまた、植物に取り込まれ、他の動物や人間に食べられたり、かれてまた土に戻ったり。
 そしてまた誰かの体内で細胞になり、命の環に入ったり、出たり・・・。

 思えば、生きている自分も、その物質はどんどん入れ替わる。
 植物や動物を食べる。
 他の命をどんどん取り込んで、自分自身の体にする。
 10年も前の自分と、今の自分とでは、姿かたちはほとんど同一だけれども、中にある物質は、ほとんどすべて、別の原子に入れ替わっている。

 輪廻転生、というのは、別に死後に限った話ではなく、生きている今でも、常に行われていること。
・・・少なくとも物質的には・・・ね。

 で、こうして見ると、自分自身、という物質と、自分の回りにある物質の境目は、どこにも無いわけです。

 そうして考えたとき、自分と、この星は、一つなんだ。と気付きました。実感した、という方が適切かもしれません。

 自分は、「地球」という、大きなものの一部なのだ。と。

 こうして、とりあえず、私にとっての(大きなもの)は、「神様」から「地球」にバトンタッチです。

 神様を信じないことにして、(大きなもの)から切り離された孤独感は、こうして埋められました。


 ところで、このままでは、物質の輪廻転生はともかく、意識や、魂の存在が空っぽのままです。

 今の科学で言うと、意識、は、コンピュータのプログラムと同じようなもの。「脳」というコンピュータに、外から何らかの刺激が“入力”されると、脳で特定の手順で処理されて(その手順は、過去の“経験”により少しずつ変化していく)、出力される。
 その出力が出される過程を、私たちは感情や意識、という形で認識しているに過ぎない。
 魂と言うのは、この作用の結果、認識されるものに過ぎない。
 ゆえに、魂に実体はない。

 なんて、これじゃあまりにも面白くない。そもそも、肝心の自分の脳・意識が、そういう解釈を、「不快」と感じる。
 次は、“魂”について、深く突っ込んでみます。「生まれ変わりは無くても、魂は永遠に続く。」という話。


後記
posted by 海風 at 15:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 価値/世界観 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月03日

社会の脆弱さが障害をつくる。

 私の卒業した大学では、「総合的な学習」みたいなもので、他の学部の先生が、他学部の生徒向けの授業を行います。そこで私は、医学部の授業を選択しました。そのとき強く印象に残ったことがあります。それは、「精神病は、社会の脆弱さを移す鏡である」ということです。
 その考え方は、数冊の精神病関連の本を読んでいくうちに私の中で強くなりました。

 精神病、あるいは精神障碍の存在は、社会の許容度によって変わります。例えば、統合失調症は、急性の症状を乗り越え、ゆっくりと社会復帰できるまでに回復します。そこでは、どこまでが病気で、どこからは病気でないのか、線引きすることは困難です。

 しかし、一つ明らかなのは、社会の許容度が小さいと、なかなか「病気」と呼ばれる状態から抜け出せない(社会復帰が困難になる)ということです。
 同じ回復状態であっても、その人の所属する社会の許容度が大きければ、その人ができる範囲が小さくても、職場に受け入れられ、めでたく社会復帰となります。
 しかし、許容度が小さい場合、より多くの事柄がこなせるようにならない限り、社会復帰が認められません。

 患者本人の能力は同じでも、社会の許容度によって、復帰の可否が左右されてしまう。
 つまり、社会復帰できない回復中の患者の存在は、本人の問題ではなく、社会そのものの病理である、といえるのです。


 極端な例を挙げると、未開の社会では、統合失調症などになった人は、急性期を過ぎると、「シャーマン」として社会復帰します。
 現在の日本の社会は、精神障害がある聞いただけで、周りの人は、どう付き合ったら良いのか分からず、パニック状態になります。偏見、という言葉を使うこともできますが、正確には、どうしたらいいのか分からないだけ。

 そして多くの大人は、そこから逃げ出してしまいます。臆病な大人たち。これが日本の、「精神病に対する許容度、耐性」なのです。電気もガスも使わない民族よりも、脆弱な社会であるといえます。
 その点では、むしろ小学生の方が、耐性は強い。今ではどうか知りませんが、「特殊学級」というのがあって、通常の勉強は別の教室で行いますが、体育の授業は、普通学級と一緒に行います。そこでは、障碍のある子は、走る距離を短くしたり、ゲームのルールを変えたりしてスポーツを楽しみます。
 それが、高等学校になるに従って、それら当たり前にいたはずの障碍者は隔離され、私達はどう接していけばいいのか、どんどん分からなくなってきています。
 
 精神病に関して言えば、まず「知る」こと。これが大事です。

 うつ病については、多少認知が進んできました。では、統合失調症については?適応障碍は?あなたはどれだけ知っていますか?

 知らないがために、自分がそうなったとき、恐怖し、パニックになり、現実から逃げ出そうとしたりします。身近な人がそうなったとき、適切な対応が取れなくなります。
 知れば分かること。それは、恐がらなくていいということ。そして、相手に合わせて受け入れればよいということ。そして、今、元気な人は、この脆弱な世の中を変えていかなくてはいけないということ。
 
 この日本では、50人に1人がうつ病になり、100人に1人が統合失調症になる。そして、それよりはるかに多くの人が、職場などでのストレスにより、体調を崩す。
 この日本では、精神系の疾患に対してあまりにも人々の知識が乏しいために、症状が重篤化するまで、精神科の扉を叩くことはない。その扉をたたくとき、人々はまるで死地に向かうかのごとく悲壮な覚悟を決めていたりする。
 
 それは「無知」から来る悲劇。
 
 この日本は、精神系の疾患を克服した人を、受け入れる術を知らない。ただ、恐怖し、硬直するばかり。
 
 それは「無知」から来る喜劇。
 
 知ればいいだけ。ゆっくりやればいいだけ。
 

 本当の幸せは、"マネーの虎"には訪れない。
 "足る"を知り、"ゆっくり"を許容できる人達にのみ、やってくる。

 本当はみんな、気付き始めている。「お金が全て」では、幸せになれないと。
 まずは、「知ること」
 そこから 始まる。
 
 


 知らない人に、読んで欲しい。
  「救急精神病棟」(野村進著、講談社)  
 

 
元ブログに寄せられたコメント
posted by 海風 at 10:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

お金と幸せについて

ふと思った。
人は、一生懸命お金を稼ぐ。なぜならば、お金があるほど、幸せに暮らせると思うからだ。

最近では、大金を稼ぐことこそが正義である、みたいな風潮もあるような気がする。
なにしろ、「成功者」「勝ち組」として取り上げられる人たちは、ほぼ例外なく金持ちだ。

ただ、その人たちは、本当に「幸せ」なのだろうか、と思うことがある。
大金を稼ぐため、年中無休で働き詰め、家族を省みることもない。
それが本当に、幸せなことなのだろうか?


原点に立ち返ろう。
お金を稼ぐ理由は、幸せになるためだ。僕らは、幸せになるために生きているのだ。

では、幸せとお金の関係には、一体どれほどの相関があるのだろうか。
「お金がなくても幸せ」という事は、ありえない。食うや食わずの生活で、幸せ、といえる人は、ほとんどいないだろう。
つまり、衣、食、住、が不足している状況下では、幸せの大きさはお金の量に強く依存する。
ところが、上記3点セットが満たされたあとは、お金の量が増えても、それによってもたらされる幸せの量は、それほど増大しないはずである。
 
これを数式で表すと、こんなイメージ。
 
H=log(M)  H:幸せの大きさ、 M:所有するお金の量
 
まあ、これは恐ろしくいい加減な式です。借金のことは考慮に入れてないし、比例定数すらきちんと定義してない。あくまでも、幸せを縦軸に、お金を横軸にしたときのグラフのイメージは、log関数に近いのではないかな、というだけのことです。
そもそも、何億円、何百億円のお金を持っていたからと言って、一体何が買えるというのか。家や車を何軒、何十台と所有しても、仕方ないだろう。愛着のある一つのものを大切にする方が、よほど「所有する幸せ」を得られるのではないだろうか?
 

 
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posted by 海風 at 09:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 価値/世界観 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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