2007年01月04日

魂の断片

 最初に人の死に接したのは、祖母が亡くなったときだった。
 火葬の直前、最後の別れをすることができた。
 棺の中の祖母を見たとき、初めて「命」というものが分かった気がする。

 あれは、理屈で分かるものではなく、厳然としてそこに存在するもの。空気を通し、皮膚で感じるもの。

 人は死んだとき、生きている誰かに、何かを残していくのだと思う。祖母は私に、「命とはなにか」を教えてくれた。

 前に見たテレビドラマで、こんな台詞があった。

 「気持ちが重いのはな、死んだ人の魂が生きている人に残されるからだよ。」
 「天国へ行くんじゃないのか?」
 「大方はな。だけど、一部は、生きている人達に分けられるんだ。」

   NHKドラマ「のんのんばあとオレ」(※記憶に頼っているので、台詞の正確性は保証できません。)


・・・納得。

 今ある自分の行動は、周りの人の影響が(相当)入っている。好き、嫌いに関わらず。他の人の存在によって、自分の魂はどんどん変質していく。それは、他の人の魂が一部混ざり合っているのだろう、と思う。
 同様に、自分の魂も、一部は他の人の中に入り込んでいるはずで、自分がそうであるように、他人の行動の中にも、自分の影響が入っていくだろう。

 それは、「思い出」などという生易しいものではなく、もっと根幹部分に、傷をつけること。互いの“存在”を、互いに“刻み付けあう”・・・生きるというのは、そういうことなのだろうと思う。

 それはかなり、きついこと。

 でも、人が成長する過程では、必ず“傷”が付く。傷つくことなしに、成長はできない。痛い傷もあれば、心地よい傷もある。(それは傷とは呼ばないか・・・。)

 「ヒト」という種が、社会性動物として生き残る道を選んだときから、人はそういう宿命を負ってしまったのだろう。何か大きなものに属すると安心するという性も、そこに起因する本能なのだと思う。

 さて、私が“傷”をつけた周りの人の魂は、その傷によって形を変える。
 その人の魂も、他の人に刻み付けられる。
 そのとき、他の人への“刻まれ方”には、私のつけた“傷”の影響が、どこかしら残っているに違いない。
 そういう私の魂の影響は、私から離れるほどに別の人の魂によって希釈されるけど、きっと「人間社会」の中で、薄まりながら、残っていくのだろう。

 そんなわけで、自分にとって、“魂”は既に永遠に残っているものであって、生まれ変わりとかは、特に必要なかったりするのです。

 それだけに、「死んだ人の分まで生きる」というのは、死んだ人の魂の断片を抱えた自分が、その人の魂を他の人に繋ぐために大事なこと。

 「人を殺してはいけない」というのは、その人の中にある無数の魂を消してはいけない、ということ。

 生きることに理由や意味は必要なくて、生きていること自体に、価値がある。その存在そのものに、価値がある。

 ストイックになる必要は無いけれど、自分なりに一生懸命生きていれば、それだけ多くの人に刻まれる。いや、多くの人でなくても、少数の人であっても、深く刻まれる。

 そんなふうに、思うのです。
posted by 海風 at 15:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 価値/世界観 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

死んだ後と、私と、地球と、神様と。

 私は、かなり前に(たしか、高校生くらいのときだったかな?忘れた。)、神様と絶交したことがあります。理由は、もう定かではありません。
 とはいえ、私の育った環境は、かなりあの世に近いところだったので、それはそれは、大変なことでした。(なんたって、母方の姉妹が集まると、幽霊話が当たり前に出てくる。霊魂も神様も、いて当然、って雰囲気。骨のずいまで、そういう思考が染み付いてるわけですよ。^^:)

 それまで、心配事とかあると、神様にお祈り(てゆーか、お願い、ですね)してたのに、絶交した以上、できません。これが意外と、しんどいのです。

 つくづく、人間は、なにか大きなものに頼らないと、安心して生きていけないのだなぁ。と感じました。

 で、そこで「神様ごめんなさい」と・・・ならなかった。強情っ張りなんだな。

 その当時すでに、両親から良い遺伝子をいただいていたおかげで、本の虫、科学好きになっていた私は、科学の視点から世界を捉えなおそうと、一生懸命考えたわけです。

 今回は、その話をちょこっと(でも長文・・・)書きたいと思います。


 人は死んだら、どこへ行くのか・・・。

 科学、という視点から取り扱うので、とりあえず魂はおいときます。物質の行方について。

 簡単ですね。燃やされて、水と二酸化炭素、そして骨と灰になります。骨はお墓でほぼ永久的に外界から隔離されますが、水と二酸化炭素は、この地球上を巡ります。
 そしていつかまた、植物に取り込まれ、他の動物や人間に食べられたり、かれてまた土に戻ったり。
 そしてまた誰かの体内で細胞になり、命の環に入ったり、出たり・・・。

 思えば、生きている自分も、その物質はどんどん入れ替わる。
 植物や動物を食べる。
 他の命をどんどん取り込んで、自分自身の体にする。
 10年も前の自分と、今の自分とでは、姿かたちはほとんど同一だけれども、中にある物質は、ほとんどすべて、別の原子に入れ替わっている。

 輪廻転生、というのは、別に死後に限った話ではなく、生きている今でも、常に行われていること。
・・・少なくとも物質的には・・・ね。

 で、こうして見ると、自分自身、という物質と、自分の回りにある物質の境目は、どこにも無いわけです。

 そうして考えたとき、自分と、この星は、一つなんだ。と気付きました。実感した、という方が適切かもしれません。

 自分は、「地球」という、大きなものの一部なのだ。と。

 こうして、とりあえず、私にとっての(大きなもの)は、「神様」から「地球」にバトンタッチです。

 神様を信じないことにして、(大きなもの)から切り離された孤独感は、こうして埋められました。


 ところで、このままでは、物質の輪廻転生はともかく、意識や、魂の存在が空っぽのままです。

 今の科学で言うと、意識、は、コンピュータのプログラムと同じようなもの。「脳」というコンピュータに、外から何らかの刺激が“入力”されると、脳で特定の手順で処理されて(その手順は、過去の“経験”により少しずつ変化していく)、出力される。
 その出力が出される過程を、私たちは感情や意識、という形で認識しているに過ぎない。
 魂と言うのは、この作用の結果、認識されるものに過ぎない。
 ゆえに、魂に実体はない。

 なんて、これじゃあまりにも面白くない。そもそも、肝心の自分の脳・意識が、そういう解釈を、「不快」と感じる。
 次は、“魂”について、深く突っ込んでみます。「生まれ変わりは無くても、魂は永遠に続く。」という話。


後記
posted by 海風 at 15:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 価値/世界観 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月03日

お金と幸せについて

ふと思った。
人は、一生懸命お金を稼ぐ。なぜならば、お金があるほど、幸せに暮らせると思うからだ。

最近では、大金を稼ぐことこそが正義である、みたいな風潮もあるような気がする。
なにしろ、「成功者」「勝ち組」として取り上げられる人たちは、ほぼ例外なく金持ちだ。

ただ、その人たちは、本当に「幸せ」なのだろうか、と思うことがある。
大金を稼ぐため、年中無休で働き詰め、家族を省みることもない。
それが本当に、幸せなことなのだろうか?


原点に立ち返ろう。
お金を稼ぐ理由は、幸せになるためだ。僕らは、幸せになるために生きているのだ。

では、幸せとお金の関係には、一体どれほどの相関があるのだろうか。
「お金がなくても幸せ」という事は、ありえない。食うや食わずの生活で、幸せ、といえる人は、ほとんどいないだろう。
つまり、衣、食、住、が不足している状況下では、幸せの大きさはお金の量に強く依存する。
ところが、上記3点セットが満たされたあとは、お金の量が増えても、それによってもたらされる幸せの量は、それほど増大しないはずである。
 
これを数式で表すと、こんなイメージ。
 
H=log(M)  H:幸せの大きさ、 M:所有するお金の量
 
まあ、これは恐ろしくいい加減な式です。借金のことは考慮に入れてないし、比例定数すらきちんと定義してない。あくまでも、幸せを縦軸に、お金を横軸にしたときのグラフのイメージは、log関数に近いのではないかな、というだけのことです。
そもそも、何億円、何百億円のお金を持っていたからと言って、一体何が買えるというのか。家や車を何軒、何十台と所有しても、仕方ないだろう。愛着のある一つのものを大切にする方が、よほど「所有する幸せ」を得られるのではないだろうか?
 

 
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posted by 海風 at 09:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 価値/世界観 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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