2009年04月18日

結論が同意できる内容なら論理はどうでもいいわけが無い。

【眼光紙背】タバコが迷惑なら、子育てだって迷惑だ!(赤木智弘氏)
ワープアにはタバコも子供も金持ちの嗜好品に見えるかも。(有村氏)
 赤木氏の主張には根本的な問題があって、それは結論だけまともで、中身の議論は前提の間違いと詭弁(定義のすり替え)だらけであることです。

 前提が間違っている論理にまともな結論は導き出されない。それを無理やり小奇麗な結論に落ち着かせて、賛同を得ようとしている。
 私に言わせりゃあんな詭弁がまかり通るのは有害です。結論さえ良ければレトリックはどんなに破綻していても構わない、というのは余りに危険な議論の展開の仕方だと思います。

 赤木氏の言う「寛容な社会を望む」というのは私も同意見ですが、それを主張するために釣り、煽りと詭弁を使ってる限り、その主張の形態は「極端な嫌煙家」のそれと変わらない。

 結論に賛同できれば、その論旨の展開も同意できるものとして自分の考えを変更してしまうのは、非常に危険な行為だと私は思います。そうして歪められた論理の上に、間違った結論を持ってこられたときに反論する事ができなくなるからです。


 ところで、この喫煙所全廃の動きと言うのは、極端な嫌煙派による行為であり、「分煙でいいじゃん」と思っている嫌煙派にとっては迷惑な行為です。(吸う場所がどこにも無くなったら、結局禁煙区域のどこかで吸わざるをえず、喫煙者と非喫煙者の共存関係が破綻する。)
 その一方で「禁煙ファシズム」を唱え、大学構内の禁煙地区で喫煙し、注意した教授を罵倒したことを自慢するようなDQN講師のような極端な喫煙派もいるわけで、こういう人達の存在は、周りに気を使って喫煙している「大人の喫煙者」にとっては、喫煙者の評判を貶める迷惑な存在なわけです。

 そこに赤木氏が「共存」を主張するのに不誠実な議論を以って煽りを入れている。
 これでは私のような「分煙でいいじゃん」派がタバコと子供を同列に扱うような人でなしみたいに見られてしまうじゃないですか!(被害妄想)実に迷惑です。

 ……じゃなくて、中庸な意見を言うのに極論を使ってどうするんですかと。「分煙の議論もいかがわしい」なんて評判でも立ったら、この問題の落としどころは、ラグランジュポイントを探すくらい面倒な事になっちゃうじゃないですか。


 どの辺に間違いと詭弁があるか、以下に列挙します。

もちろん、それは税金に決まっているのだけれども、彼らは「喫煙という個人の趣味を税金で負担するべきではない」のだという。
   <中略>
私には「個人が自らの幸福を追求するために子供を産み育てる行為」と「個人が自らの幸福を追求するためにタバコを吸う行為」に、大きな違いがあるとはまったく思えない。

(1)喫煙=趣味である。
(2)子育て=自らの幸福を追及する行為である。
(3)趣味は自らの幸福を追及する行為である。
(4)ゆえに喫煙と子育ては同じである。
という一見もっともな論理なんですが、
(1)趣味ではなく中毒である。
(2)子育ての価値を個人の幸福の追求と言う点のみに矮小化している。

  間違った前提からは正しく結論を導けません。
 (1)は明らかな間違いであり、喫煙と子育てを同列に扱うという(4)の結論も間違っています。
また、子育ては幸福の追求のみではありませんよね。人間社会全域に渡る直接的な発展、あるいは幸福の追及という側面もあります。
タバコは基本的に個人の幸福の追求のみ、社会性で言うなら生産農家やJTなどごく一部に限られる。
 まあ、同列に扱うのは無理ってもんです。

「子供を育てる行為は、子供を育てない人に迷惑をかけていない」と思うかもしれないが、家族を守ることが絶対善であるという社会通念によって、単身者がいかに不利益を受けているかを考えれば(それこそ、「就職氷河期問題」というのは、「家族を養う父親」のクビを切らないために、単身者である若者の雇用を大幅に控えたことから発生した問題である。)、煙なんかよりもはるかに迷惑な存在なのである。
 これは間違い探しのほうが簡単かな。
タバコの問題を「迷惑」に矮小化
雇用問題のメカニズムの説明は、間違いとは言わないが、正しくない。
早期退職制度と言うのをこの人は知らないのだろうか。

 まあ、「単身者の不利益」というのも言いがかりなんで。定量性の無い主張なんで同レベルで反論するなら、パラサイトシングルとか、ニートという利益は誰によってもたらされたのか。
それでも私が、学校の全面閉鎖などを求めないのは、たとえ迷惑であっても、それを互いに我慢していくことによって、始めてみんなが幸せな社会が実現すると考えているからである。
 なんで恩着せがましいんだ? ってのは私の勝手な解釈なので置いとく。

 赤木氏は先にこう記している。
私は児童公園や市立の保育園や幼稚園、小中学校の全面閉鎖を求めたい。なぜなら、子供を持たない私が、子育てという個人の趣味を、税金を通して負担してやる理由はないからだ。
 と述べている以上、この人は学校というのが個人の趣味を満たす為に設置されていると考えているわけである。他の解釈のしようが無い。
 まずこれが大きな間違いである事は明白なわけです。学校は社会利益の為に設置されている。
 更に言うと、「子育て」と「教育」は別のものであるにもかかわらず、これを同じであると強弁している。すなわち「定義のすり替え」という詭弁を用いている。
 定義をすりかえている時点で、この人の言う「学校」は「学校」ではないのだが、その一般的な定義である所の「学校」を閉鎖せよ、という。ここで定義を再度すりかえている。


 なお、ここでは「詭弁」という言葉を用いましたが、実は赤木氏は簡単な問題をわざわざ小難しく説明しようとして無意識にこんなめちゃくちゃな事を書いてしまったのかもしれない。この場合、「詭弁」というよりも「誤謬」と呼ぶのが正しいらしい。(Wikipediaによる)

 いずれにせよ、赤木氏の記事は取り上げるのもバカバカしい代物です。はてなブックマークで注目されていて、斜め読みしてブクマする価値も無いとスルーしていたのですが、結論だけ見てあれを評価する人もちらほら見受けられるので思わず書いちまいました。

 何より、その的外れで下手くそな比喩のために真意をまともに伝える事ができない、悲惨な結果を招いている。論壇の文章書きとしては致命的な失敗と言えるのではないでしょうか。あれは擁護する価値は無いと思います。叩いてもっとまともな文章を書けるように仕向ける方がいいと思います。

 まあなんだ、ブコメで本文読まずに罵倒している人もいるけど、本文読まないのは、結果的に正解だと思う。熟読しても読む価値無いし、下らないタイトル釣りをした赤木氏もこれで「本文を読まれないタイトル」ってリスクに気付くだろうし。

 僕としては久々に「奇妙な議論」の分析作業ができて良かったかなと。直感的にだめな文章は、やっぱどっかがおかしいんだわ。
posted by 海風 at 03:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月03日

社会の脆弱さが障害をつくる。

 私の卒業した大学では、「総合的な学習」みたいなもので、他の学部の先生が、他学部の生徒向けの授業を行います。そこで私は、医学部の授業を選択しました。そのとき強く印象に残ったことがあります。それは、「精神病は、社会の脆弱さを移す鏡である」ということです。
 その考え方は、数冊の精神病関連の本を読んでいくうちに私の中で強くなりました。

 精神病、あるいは精神障碍の存在は、社会の許容度によって変わります。例えば、統合失調症は、急性の症状を乗り越え、ゆっくりと社会復帰できるまでに回復します。そこでは、どこまでが病気で、どこからは病気でないのか、線引きすることは困難です。

 しかし、一つ明らかなのは、社会の許容度が小さいと、なかなか「病気」と呼ばれる状態から抜け出せない(社会復帰が困難になる)ということです。
 同じ回復状態であっても、その人の所属する社会の許容度が大きければ、その人ができる範囲が小さくても、職場に受け入れられ、めでたく社会復帰となります。
 しかし、許容度が小さい場合、より多くの事柄がこなせるようにならない限り、社会復帰が認められません。

 患者本人の能力は同じでも、社会の許容度によって、復帰の可否が左右されてしまう。
 つまり、社会復帰できない回復中の患者の存在は、本人の問題ではなく、社会そのものの病理である、といえるのです。


 極端な例を挙げると、未開の社会では、統合失調症などになった人は、急性期を過ぎると、「シャーマン」として社会復帰します。
 現在の日本の社会は、精神障害がある聞いただけで、周りの人は、どう付き合ったら良いのか分からず、パニック状態になります。偏見、という言葉を使うこともできますが、正確には、どうしたらいいのか分からないだけ。

 そして多くの大人は、そこから逃げ出してしまいます。臆病な大人たち。これが日本の、「精神病に対する許容度、耐性」なのです。電気もガスも使わない民族よりも、脆弱な社会であるといえます。
 その点では、むしろ小学生の方が、耐性は強い。今ではどうか知りませんが、「特殊学級」というのがあって、通常の勉強は別の教室で行いますが、体育の授業は、普通学級と一緒に行います。そこでは、障碍のある子は、走る距離を短くしたり、ゲームのルールを変えたりしてスポーツを楽しみます。
 それが、高等学校になるに従って、それら当たり前にいたはずの障碍者は隔離され、私達はどう接していけばいいのか、どんどん分からなくなってきています。
 
 精神病に関して言えば、まず「知る」こと。これが大事です。

 うつ病については、多少認知が進んできました。では、統合失調症については?適応障碍は?あなたはどれだけ知っていますか?

 知らないがために、自分がそうなったとき、恐怖し、パニックになり、現実から逃げ出そうとしたりします。身近な人がそうなったとき、適切な対応が取れなくなります。
 知れば分かること。それは、恐がらなくていいということ。そして、相手に合わせて受け入れればよいということ。そして、今、元気な人は、この脆弱な世の中を変えていかなくてはいけないということ。
 
 この日本では、50人に1人がうつ病になり、100人に1人が統合失調症になる。そして、それよりはるかに多くの人が、職場などでのストレスにより、体調を崩す。
 この日本では、精神系の疾患に対してあまりにも人々の知識が乏しいために、症状が重篤化するまで、精神科の扉を叩くことはない。その扉をたたくとき、人々はまるで死地に向かうかのごとく悲壮な覚悟を決めていたりする。
 
 それは「無知」から来る悲劇。
 
 この日本は、精神系の疾患を克服した人を、受け入れる術を知らない。ただ、恐怖し、硬直するばかり。
 
 それは「無知」から来る喜劇。
 
 知ればいいだけ。ゆっくりやればいいだけ。
 

 本当の幸せは、"マネーの虎"には訪れない。
 "足る"を知り、"ゆっくり"を許容できる人達にのみ、やってくる。

 本当はみんな、気付き始めている。「お金が全て」では、幸せになれないと。
 まずは、「知ること」
 そこから 始まる。
 
 


 知らない人に、読んで欲しい。
  「救急精神病棟」(野村進著、講談社)  
 

 
元ブログに寄せられたコメント
posted by 海風 at 10:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。